行き渋りが1年以上続き、ようやく学校を離れる決心がつきました。
死んだ目をしたわが子の腕を引っ張りながら登校する毎日。
こんなことに、意味はあるのだろうか?
—— 疲れ果てた末の決断でした。
空は晴れていても、心は重たく曇っていた朝が、
少しずつ、光り輝く朝に変わっていきました。
「登校に付き添う必要がなくなった時間を、新しいことにチャレンジする時間にしよう」
玄関のすみに眠っていた一輪車に目をとめて、
「一輪車の練習、してみない?」
そこから、特訓が始まりました。
2日ほどで補助があればバランスを取れるようになり、
1週間ほどで2mほど進めるように。
そして1ヶ月後には、補助なしで乗れるように!
「明日は、止まっていられるようになりたい」
「明日は、もっと長くこげるようになりたい」
「明日は、補助を外したい」
気づけば、自然と目標をもち、
達成を喜んだり、悔しがったりしながら前に進む毎日。
『こんなふうに笑ってくれる日を、ずっと待っていた。』
登校に付き添っていた頃は、
わが子の良いところが、まったく見えなくなっていました。
「学校にさえ行ってくれたら安心なのに」
「心が弱いから、こうなってしまったの?」
「また明日が来るのがこわい…」
そんなふうに、自分も、子どもも、責めてばかりでした。
そんなある日、ふと、行き渋りを続けていた頃のわが子の言葉を思い出しました。
『雑草のような心がほしい』
踏まれても、踏まれても、
ピンと立ち上がって太陽に向かって伸びていく——
そんな心を持てたら、きっとへこたれないよね。
当時の私は、わが子の良いところも、
その強さも、信じることができなくなっていたのかもしれません。
でも、
目標を決めて、
転んでも何度も挑戦して、
昨日より少しずつ前に進んでいく姿。
それを楽しんでいる我が子の表情を見て、気づいたんです。
—— ああ、この子はちゃんと、雑草のような心を持っていたんだなって。
学校を離れ、少しだけ余裕が持てた朝に見えた、小さな光。
わが子には、ちゃんと「伸びる力」がありました。
それが、「学校に行く」という形では見えなかっただけ。
そう気づいたとき、
私自身も、少しずつ変わり始めました。
おうちで過ごす時間が長くなると、
子どもの良いところが見えなくなってしまうこともあります。
でもそれは、見えにくくなっているだけ。
あなたにも、お子さんにも、ちゃんと「強み」があります。
できないことを見るのではなく、
“すでにできていること”や、“隠れていた力”に、そっと光をあてていく。
いつもお子さんのためにがんばっているお母さんが、
「こんな関わり方でよかったんだ」って、
少し肩の力を抜けるきっかけになりますように。
安心して、深呼吸できる場所で、
あなたとお子さんの「強み」を一緒に見つけてみませんか?
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